夜明けのエクスタシー

HISTORY

地上に舞い降りた女神

ルーブル美術館。ピラミッドの入り口を抜け、ドノン翼から入るとモナリザが微笑む。そして、さらに上に上がると廊下が伸びている。その先に行けば、ダリュの踊り場で、サモトラケのニケが大きく翼を広げている。ギリシャ神話では勝利の女神として言い伝えがあり、1884年にこのルーブルの地に舞い降りた。

ロールスロイスの歴史はスピードの歴史でもあった。数々のレース、ベントレーの買収、そして航空産業への参入。

創設者の一人、チャールズ・ロールズも若くしてスピードの悦楽に浸った一人でもあった。

ケンブリッジ大学で機械工学を学んでいた彼は、1896年フランス・パリの旅行で一台のプジョー・フェートンを手に入れた。ケンブリッジ在住者の中では初の車オーナーとなった。しかし、当時のギリスでは赤旗法によりスピード規制がされていたため、思うように走れなかったことに苛立ち、仲間とともに廃止運動を起こすほど、車に傾倒した。

チャールズはヨーロッパ各地のレースに明け暮れた。大学卒業後には、蒸気船サンタ・マリア号に勤務、次いでロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道に就く。技術屋として勤務していたが、ついにはクルマ好きが転じ、1903年イギリスで初めての自動車販売店C.S.Rolls & Co. を設立することとなる。フランスのプジョー、そしてベルギーのミネルヴァを店頭に並べた。しかし、そこに英国の車は並んではいなかった。

そんなチャールズ・ロールズに女神がどんないたずらを仕掛けたのかは知る由も無いが、1904年5月4日マンチェスターのミッドランド・ホテルでロールズとロイスの歴史的な出会いは生まれ、車に対するパッションは未だに熱を帯びたまま継承されることとなった。

目覚めたロイス・10HP

フレデリック・ヘンリー・ロイス。女神はこの男に不屈の精神と電気工学の知識を授けた。ロイスの父親は製粉工場を営んでいたが、資金不足により機械化の波についていけず倒産。後に病に倒れついには、幼いヘンリー・ロイス働くことになった。11歳の少年は新聞配達をして生計の手助けをしていた。そのため学校には通えなかった。

父親は間もなく死去し、その後は親戚の叔母の援助を受けながら生活をしていた。15歳の時に、機関車会社に就職し働きながら独学で工学とフランス語を学んだ。

独学での限界を感じたロールスは専門学校に入学し、電気工学の知識と技術に磨きをかけていった矢先、生活の援助をしてくれていた叔母も亡くなり、貧困生活に終わりは見えなかった。しかし、女神がロイスを見捨てることはなかった。

ロイスの電気工学の知識が認められ、エレクトリック・ライティング&パワー・ジェネレーティング・カンパニーに就職、のちにランカシャー・マキシム・ウェスタン・カンパニーからヘッドハンティング受け着々と力をつけていった。

そしてついに、手持ちの20ポンドでビジネスオーナーとなる。電気部品製造会社ロイス&カンパニーと名付けられた会社は、大手電器メーカーへランプホルダーやフィラメントなどのパーツを供給していた。28歳の時には、会社は軌道に乗りビジネスは成功を収めていた。

高品質の直流発電機と直流発動機の開発の成功だけではなく、クレーンの開発においても成功を収めた。

そんなロイスが次に目をつけたのが、まさに自動車であった。1903年、ロールズがプジョーやミネルヴァを販売していたこと、ロイスはフランスのドコービル製自動車12HPを購入し、大きな不満を抱く。激しい振動、粗悪なコントロール性能には我慢ならなかった。

ドコービル12HPをベース車に改善改良を加え、第一号車は1904年4月1日に完成した。ロイス自身が工場と自宅との間で走行実験を行った。次いで2号車は社長のアーネスト・クレアモントに、3号車をロイスの大株主だったパーソンズ・ノンスキッド・タイヤ・カンパニーの代表ヘンリー・エドムンズに預けて走行実験を重ねた。そしてエドムンズはオートモビル・クラブ・オブ・グレートブリテン&アイルランド主催のテストに持ち込んだ。この時のテストドライバーの一人がチャールズ・ロールズであった。

ロールズは3気筒や4気筒の車に夢中だったが、この2気筒のロイス・10HPの性能の高さに感銘を受け、ミッドランド・ホテルでの昼食会は開かれた。

1904年12月クリスマス直前に決まった車名は『ロールス・ロイス』。独占販売権をチャールズ・ロールズが持つ契約が正式に締結され、英国産自動車産業の幕開けとなった。

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